2011年5月3日火曜日

長島さんレポート110503

今日も、わたしの教え子の情報です。
昨日、2年前に卒業したI君から電話が来ました。
自宅は南仙台で大丈夫でしたが、青森のおじいさんが一酸化炭素中毒でお亡くなりになったそうです。
職場は亘理ですが、浸水は免れたそうです。
同じ年に研究室にいたN君は東京で働いていますが、実家は石巻なので心配していましたがI君の情報では浸水被害があったとのことです。

やはり、ずっと心配していたO君に電話してみました。心配していましたが、怖くて電話できなかったのです。
O君は10年ほど前に研究室にいた卒業生です。
実家が亘理で、職場も亘理の土地改良区です。
電話の向こうから10年前と変わらない声が聞こえました。
職場自体は大きな浸水は免れたようですが、土地改良区は、ご存知と思いますが、農家や補助金で成り立っており、地域の田んぼに用水を供給しています。昨年、隣接する山元町の土地改良区と合併したそうで、宮城県の南部の水利を担当しています。
宮城県は、沿岸地域の広大な田園地帯が浸水しており、O君の話しでは、今年は従来の20%の田んぼしか作付ができないそうです。
地震後、行政との調整などに追われ、残った田んぼに水を供給するのに忙しいようです。
土地改良区の経営が成り立たなくなれば、農業自体が成り立たなくなりますので心配です。
O君自身は、既に家庭を持っており太白区に住んでいますが、亘理の実家は浸水したそうです。
ご家族は牛を飼っていましたので、逃げることもできず2階にいたそうですが、牛もなんとか助かったそうです。
O君は子供がひとりいますが、誰にも言っていないといいながら、2人目の予定があるそうです。
土地改良区がおかしくなったら、研究室で雇ってくださいと冗談を言っていました。
 

やはり、実はずっと心配していた別のO君の名前をグーグルパーソンファインダーで見つけました。
彼は気仙沼市の唐桑で自営業をしていました。
窓から釣りができるというほど海に隣接していました。
いまは、唐桑の中井公民館にご家族といるようなので、手紙を出すつもりです。

そのO君と同期で、いまは仙台で働いているE君も、確か、実家が石巻だったことに気づいて、Eメールを出しました。まだ返事がありません。

みなさんは、不思議と思うでしょうが、地震があってから、精神的な余裕がなく何かをするわけでもなく、茫然自失の日々が過ぎたのです。こどもたちの方が積極的に動いたのでした。情けない話です。
確かに、状況を知ることが怖いという気持ちもあったのでしょうし、連絡がなかなかつかないこともあるでしょう。ようやく、少しづつ教え子の情報を知ることができるようになってきました。

教員をしていて、教え子は人生の思い出そのものです。
わたしたちの人生は人との出会いであるからです。
幼稚園長をしていた頃の東北学院時報に掲載したコラムを紹介します。
教員になって、初めて別れが見送る別れと見送られる別れがあることに気づきました。
キリストは十字架の上でも、昇天の際も、わたしたちに身体を、お顔を向けていらっしゃったのです。
常に、キリストは見送る側に立っておられたのです。
そして、聖書の教えにより、再びいらっしゃる際も、同じ姿で、すなわち、わたしたちの方を向いて近づいていらっしゃるのです。

わたしたちも、苦難にある人々に身体を、顔を、気持ちを向けて行きたいものだと思います。
そして、そのことを通して、多くの方々が、神との出会いがありますことを祈ります。

長島慎二