今回、泥出しに計5日間取り組みました。泥出しは肉体労働で、もう50代後半の私には最初はできないかと思いましたが、60歳以上のボランティアの方が頑張っているのを見て、私も力を入れたところ、なんとかなりました。
実は、今度の災害が起こったとき、信仰が動揺してしまったのです。神様がいるならなぜこのようなひどい災禍を地上にもたらすのだろうか・・・。そのような動揺の中で、実際に活動してみて何かを見つけたいと思いました。実は4年前に、ルーテル教会のメンバーおよび米国ミズーリシノッド(LCMS)の方とインド洋大津波の被害を受けたインドネシアのバンダアチェに支援活動に行った際にも同じことを考えました。
行政では手に負えない民家の泥の後片付けに行くのですが、使えなくなった家具他家庭用品の廃棄も手伝います。汚泥の悪臭は強烈でした。私のグループが作業した場所は近くに農協の倉庫があり、そこから肥料や飼料の入った袋が大量に流れてきていました。これらが発酵してものすごい汚物臭がします。これが体に染みついてしまって、帰ってきてもまだにおいます。しかし、この作業の中で気が付いたことがあります。それは「瓦礫の汚泥の中にこそ神はいます」ということです。
神様は我々に課題を出しているのだろう。学生に問題を出さない、課題を課さない教師はいません。よい教師であればあるほど、より困難な問題を出し、学生の問題解決能力を鍛えます。バンダアチェでは津波のあと、40年以上続いた内戦が終結へ向かい、今は平和構築の途にあります。今回も、神様のメッセージを理解して、社会を変えるために行動しなければならないとしました。冷暖房の効いた教会堂の中ではもしかしたら神様の存在を確信することは難しいかもしれない。しかし、瓦礫と汚泥の作業の中には確実にそれができる。神とは我々が応答する中で見出していくものではないか?
一緒に作業し石巻で泊まった杉本先生とお話しする中で、これに気が付きました。この発見で失いかけた方向を見出したように思います。ボランティアあるいは、市民あるいは職業のプロとして持ち場で考え行動するということが、神様の御心にかなうことだと思います。
今後とも、中、長期的に支援を続けたいと思います。
最後に、仙台教会の皆様、支援チームの皆様、バックアップしていただいた方々、すべての方々にお礼申し上げます。
林 薫(NRK信徒)