2011年7月6日水曜日

[ボラレポ]冷たい現実と復興の情熱

こんにちは、田園調布教会所属の加藤です。

今日は7月2日の土曜日です。6月26日(日)に田園調布教会を杉本牧師と共に教会の車両で仙台に向かいました。
6月27日、28日の二泊三日のボランティアをいたしました。感謝と体験の日々でした。行ってすごいよかったです。
何がよかったのか?それは震災が私の中で震災とボランティアということが現実の思い出(記憶)になったことでした。
私の目に焼きついたことです。冷たい現実と復興という情熱の温度を体験しました。

 


6月26日夜に当初、杉本牧師の提案で、石巻災害ボランティアセンターである石巻専修大学のキャンパス内に車中泊の計画がありました。
しかし、となりびとの本部から車両が必要だとのことで、計画変更して、仙台教会に宿泊することになりました。
仙台教会の礼拝堂に長椅子を向かい合わせして、畳を置いたベットはなかなかの快適です。
私は新聞紙でごみ袋やごみ箱をつくるカトー折りを披露して、役立てようだなんて思っていました。それを見せると「発明家」と寮母の田中さんに呼ばれました。

6月27日は東松島の「すみちゃんの家」で泥で黄ばんだ食器をクレンザーで落とす作業を蒲田教会の鶴見君のリーダーで行いました。田園調布教会から私を含めて3人が入りました。しとしと雨が降る中、玄関先に座り込んでの作業でした。
ときおり、イオウの臭いがして、人通りもなくて、静かな作業でした。昼は仙台教会で自分でご飯を詰めた弁当を食べました。
帰りに奥松島の海岸線の民家を車で視察しました。手付かずの崩壊した民家が次々の見えてきます。くしゃくしゃの車両に消防車もありました。

6月27日の夕方は、仙台教会のアパートでシャワーを浴びました。また7合の炊飯をさせていただきました。
仙台教会では「わかちあい」がありました。そこで当日の作業の報告を共有して、明日の予定を決めるのです。
そこで私は明日、石巻に行くことになりました。私の希望でもありました。泥かきをしておかないと。。。そう思っていました。
準備もたくさんしていました。防塵マスク、ゴーグル、作業服などすべて買い揃えたのです。完璧だろうと思っていました。

6月28日の朝、炊飯が気になって、目覚めたのですが、その時間がちょうどよい時間で、石巻に出発する時間とぴったりだったのです。なんと、出発時間をチェックしていなかったのです。

石巻ボランティアセンターには竹前君と谷口さんと加藤の3人で向かいました。ボランティアへ向かう車による渋滞で少し時間はかかりました。
二人は受付担当、私は泥かき作業のため、作業登録しました。ワッペンを胸につけて、車両ありと車両なしのグループに分かれて、仕事を来るのを待ちます。
担当者が仕事を説明して、車両と人をマッチングさせて、その場でリーダーが決めます。リーダーはタニさんでした。
芸能の映像関係の仕事されている会社の人たちの3人と一緒になって、4人が高級乗用車に乗って、現場に向かうことになりました。
そして、念願の石巻の民家の泥かきの作業をすることになったのです。スコップで泥をすくい、土嚢に詰めてネコ(一輪手押し車)で運ぶのです。

しかし、はじまると、とてもじゃないけど、事務仕事をしている私にとっては悲痛の作業でした。腰が上がらなくなって、マスクで息が苦しくて、タオルで口をふさぐと臭いや粉塵が気になります。またゴーグルを忘れてしまい、目に何かが突き刺さりそうな感覚になりました。長靴に敷く鉄板のソールももらわなかったので、釘を踏まないようにと。。。汗だくになりました。
民家の女性が冷たいドリンクを用意してくださいました。トイレがここにはないとのことがわかり、また焦るのですが、結局心配無用でした。全部、汗になって尿意は一度もありませんでした。休憩をすると、風がとても気持ちよく、心配の雨もそんなに降りませんでした。

昼は自分の炊いたご飯の弁当を高級シャケ缶詰でいただきました!おいしかったです。(鶴見君、ごちそうさま!持って行きました!)
着替えて、午後はすっきりした気持ちで仕事をスタートしました。

後半はやっと自分のペースで仕事ができるようになりました。コツもわかり、スイスイとできるようになりました。
しかし、作業服は泥だらけ、汗だく。。。でした。

どうしよう。これじゃ、高級車に乗れないという思いがあって、片付けの途中から自分は着替えるものもない。すると着ていない合羽ズボンとルーテルのジャンパーがありました。それに着替えました。そして新聞紙で汚れた作業服や下着を自分で考案した袋に詰めて、新聞紙を車内の絨毯に敷いて、なんとか、乗れました。出た時間が4時ごろでした。

5時ちょっと前に石巻ボラセンに到着。そこで私が女川の視察を希望したのです。今夜には帰るので、ぜひ見たいというと、許可がおりました。
それから1時間くらいで、竹前君と谷口さんと私の三人で女川の病院のある高台に着きました。

これまでのボランティアの体験以上に、衝撃的なシーンのインパクトが私の心を支配します。3人で黙祷をしました。
すると、突然、地元の男性の方が私に話しかけてきてくれました。
「あそこに見える高台の部落にいたんだが、私は助かったが、その下の部落がみんな流されたよ。へっちゃらとか行っていた連中はみ~んな流された。でも流されても奇跡的に助かった人もいる。ほら、あの沖にクリーム色のコンクリートの建物、みえるじゃろ、あそこまで
流された女性が何か捕まっていて、助かったよ。あんたが立っているここ。ここにも津波が来たんだ。ほれ、柵が折れているだろ、あの電灯も倒れているだろ。ここまで津波が来たんだよ。誰が想像してもわからんよ。ここから水平に見てごらん、その下全部がめちゃくちゃで、何もにない。
でも、自衛隊の人たちがみんなきれいに片付けてくれたんだ。よくきれいにしてくれたよ。」

そのあと、女川漁港をデリカで一周しました。どこも崩壊状態の建物でした。ラジオからは流れるニュースが原発や管政権のニュース。
暗闇になっていくと風景にはグランドに積まれた瓦礫の山、そして4階にやっと灯りがある校舎が見えました。

20時に仙台教会につきました。シャワーを浴びて、夕食を取りました。私の帰りをも待っていたのです。わかちあいをする時間を遅らせていたのです。
申し訳ございませんという気持ちと、津波の惨事を見たショックと、ボランティアの体験、迫るバスの乗車の時間もあり、何も帰り支度していないのにという思い私の心をグルングルン回ります。

田村先生が仙台駅まで送ってくれました。帰り際に鶴見君や竹前君、谷口さんと握手しました。杉本先生が心配そうに見送ってくれました。
そして、23時に仙台駅を出たバスは翌朝5時45分に新宿に着き、会社に置いてあった着替えに着替えて、9時から出勤となりました。
今、その泥だらけの作業服の洗濯を終えたところです。

長々と書かせてもらいました。最後に写真を添付させていただきます。

ありがとうとございました。