万葉歌人の大伴家持が越中国守として今の富山県に赴任したのが20代。多作の作家と言われる家持の作品の半数が富山で作られたそうです。富山で生まれ育ったわたしは、10代の頃より富山で作られた家持の歌には親しみを感じておりました。少し紹介しましょう。
もののふの八十少女(やそおとめ)らが汲みまがふ寺井の上の堅香子(かたかご)の花
馬並(な)めていざ打ち行かな渋谷(しぶたに)の清き磯廻(いそみ)に寄する波見に
玉くしげ二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり
立山(たちやま)に降りおける雪を常夏(とこなつ)に見れともあかす神からならし
春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ
朝床に聞けば遙けし射水川朝漕ぎしつつ唱ふ船人
5年余りの越中国守としての務めの後の人生は、政治闘争に巻き込まれ、40代半ば以降の歌が残されておらず、西暦782年、60代半ばで陸奥按察使・鎮守将軍として、当時、国府が置かれていた多賀城に赴任し、その数年後に亡くなったようです。有名な坂上田村麻呂の東北征伐が西暦802年ですから、家持が赴任した当時の多賀城は蝦夷に対する最前線だったのです。
もとより、多賀城における家持の歌は残されておりませんが、大伴家持研究家がおり、わたしも若い頃に一度、研究会に連れて行ってもらった思い出があります。富山に生まれ育ち、多賀城で久しく働いているわたしには、大伴家持が目にした風景は原風景なのです。おそらくは家持も眺めたであろう、仙台平野と海岸線、多賀城から塩釜および七ヶ浜、そして松島にいたる美しい風景は一日にして荒れ野となりました。驚くことに、
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは (清原元輔)
で知られる多賀城市にある歌枕、末の松山も、周囲の道路は津波が押し寄せたのです。末の松山は、職場からは近いので何度も行きました。東北学院大学の特別伝道礼拝で説教なさったルーテル神学校のE校長先生もお連れした思い出があります。
それでも、わたしたちにとっては福音があります。荒れ野で洗礼者ヨハネの宣言をあらためて聞こうではありませんか。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(日本聖書協会『新共同訳
新約聖書』マルコによる福音書1章7節、8節)
さて、今日、素敵なリースとクリスマスカードを受け取りました。ルーテル広島教会のお花屋さんであるY姉とお花仲間の方がお作りになったそうです。ありがとうございます。全国の皆様の祈りが被災地を励まします。皆様も良いクリスマスを。
仙台教会 長島慎二