2011年7月23日土曜日

[ボラレポ]信仰をもって問い続ける

 7月4~8日、仙台のボランティアに行って来ました。神戸まで出て、河先生の自動車で12時間かけて行く予定にしていましたが、さすがに「長いなあ」と思いました。でも、前の週、神様がメッセンジャーを送って下さいました。フィリピンの奥地に宣教師として遣わされた福田先生は、車で二日、その後、徒歩で丸一日かかって(しかも、蛭のいる沼地を通り、さらに、二人の幼子を含む家族を連れて)現地に入って行かれたということを、神学校のチャペルでお聴きし、12時間はたいしたことない、と思い直しました。
  
 4日に現地に着き、5日は、5時起きで石巻に向かい、住宅の床をはぐって、泥かきの作業をしました。かいてもかいても終わらない作業でしたが、休憩時間に、継続して作業しておられるNPOの職員の方から、二週間前には建物の外の敷地も泥だらけだったと伺いました。しかも、その住宅は、たらこ加工工場と併設しており、泥まみれの大量のたらこにハエが卵を産みつけ、一面(うじで)まっ白な中、ゴマ塩状態にハエがたかっており、近づくとハエの大群に襲われるようなところだったそうです。そんな外の敷地は、すでにきれいになっており、やってもやっても終わらない作業と思っていましたが、確実に復興に向かっている、ということが分かりました。
  


 さらに、そのNPOの方より、工場の社長さんがボランティアの働きに感動、わたしたちが作業している住宅は、改修が終わったら、ボランティアの人たちが寝泊まりできる施設として使わせて下さることになっているということをお聞きしました。そんな風に、目的がはっきりすると、また、元気が湧いて来て、作業を続けることができました。

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(Ⅰコリント15章58節)。  

6日は、午前中、気仙沼の惨状を視察しました。海岸側の元道の駅でお弁当を食べましたが、その道の駅の(3階建ての)建物の屋上にまで津波が到達していたことが分かり、びっくりしました。
 
 午後は、気仙沼の地域の方々といっしょに近くの山で木を伐る作業をしました。木を伐っては、1メートルあまりの長さに切断、トラックまで運ぶという作業を延々としました。始めは分かりませんでしたが、後になって気仙沼で作業をするボランティアのための拠点となるプレハブの土台となる木を伐り出す作業だった、ということがわかりました。そして、最後までいっしょに黙々と作業しておられた方は、プレハブを建てるための土地を貸して下さることになっている方である、ということが分かりました。さらに、その山の少し下ったところに、ここまで津波の水が到達したという示す印を見つけ、津波の力の大きさを見せつけられました。震災のボランティアと言いながら、山で木を伐って、何をしているのだろう。地域の方々の作業のお手伝い?くらいに思っていましたが、最後に全部がつながる一日でした。

「わたしにしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13章6節)。      

7日は、大川小学校、津波で流されたバスがビルの屋上に乗り上げている映像で有名な雄勝、町全体が壊滅した状況を見渡せる女川町立病院など、津波の被害の大きかった被災地を視察して回りました。特に、大川小学校は、全校生徒90名のうち、70名が津波で流された小学校で、引き取られることさえない教科書や上履きの靴などの遺留品が残されており、その被害の惨状に涙が込み上げて来ました。そのような被災地を巡りながら、先日読んだ牧会ジャーナルの藤原導夫先生の文章を思い出しました。震災という問いに対して、それは神の裁きであるという解釈のもとに語られる悔い改めの説教のまちがいについて記された文章でしたが、その最後にユージン・ピーターソンの次のことばでしめくくられていました。
「自分がいかに神に対して無知であるかということに、私たちははっきりと目覚めていなければならない」。
 震災という問いに対して、安易な回答を得ようとするのでなく、問いは問いとしてもち続けながら、その一方で、だからこそ信仰をもってキリストの十字架を見上げていくことの大切さを胸に刻んだ一日でした。

ボランティア 前川隆一(出雲教会)