2011年8月26日金曜日

[ボラレポ]頑張らなくちゃいけないのは私たち

チーム横浜英和小学校を率いてボランティアに参加された大和さんより、渾身の報告書をおわちいただきました。

「東日本大震災ボランティアレポート」

3月11日、午後2時46分。小学校では、短縮授業中のため、1年生~4年生はすでに殆どの児童が帰宅していた。学校に残っていたのは、5年生と6年2組の児童と個人面談を予定していた数組の親子であった。横浜においても過去経験したことのないような震度5弱の地震で、首都圏の交通がストップしてその後の対応は大変であったが、報道で岩手県・宮城県・福島県を中心とする東北地方から茨城県・千葉県にまで及ぶ広範囲にわたる被害を知り、驚くことばかりであった。震度7の地震に続く津波そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、私達に日々驚きと怖れを抱かせている。 


小学校では、海外伝道の日礼拝・花の日子どもの日礼拝の献金の一部を被災地のためにささげ、また児童会ボランティア委員会でも児童が積極的に呼び掛け、6月募金活動を行い、日本国際飢餓対策機構を通して献金をしてきた。しかし電力供給制限のために、多少薄暗い生活になったり、エアコンの設定温度が28度になったり、地下鉄の本数が少なくなったりの変化はあっても、日常生活に大きな影響がなくなると、マスコミの報道も原発事故や放射線の状況、被曝問題が中心となり、3月11日の地震・津波は遠くの出来事という意識になってきてしまっている。またどのような支援ができるのかということも分からないままに過ごしている。この未曽有の災害を忘れないために、また私達ができる支援を考えるために、是非現地を見てきたいという思いからボランティア参加を小学校教員に呼びかけた。幸いにも白根教頭、大久保教諭、三股教諭、宮﨑教諭が賛同してくださり、「チーム横浜英和」5名でボランティアに参加することになった。

現在様々の団体がボランティア活動を行っているが、ルーテル教会では、LWF(ルーテル世界連盟 )の支援を受けて、日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団、近畿福音ルーテル教会、西日本福音ルーテル教会の4教団で東日本大震災「ルーテル教会救援」(JLER)を結成し、被災された多くの方々への可能な限りの多角的な救援活動を展開してきている。それぞれ様々な教派に属する私達だが、その趣旨に賛同し、日本福音ルーテル仙台教会を拠点とする「ルーテル支援センターとなりびと」の活動に参加させていただいた。

「ルーテル支援センターとなりびと」では、派遣牧師2名(立野事務局長、伊藤引退牧師)現地スタッフ4名が中心に現地で献身的な働きを続けられている。6名の方々が震災直後から宮城県の被災地を回り、丁寧に被災した方々の目線で歩き関係作りからスタートし、必要としているものを柔軟に提供する活動を行ってきている。活動内容は、食料から自動車まで、さらに介護ボランティアや災害ボランティアセンター支援のためのスタッフ派遣など、物資に限らず幅広い支援を展開してきている。震災から4か月間の大きな働きによって、これまでは、ボランティアも仙台教会を6時に出発して石巻まで2時間半かけて赴き活動してきたが、石巻本地生活センターを石巻の拠点として使わせていただけるようになり、活動もよりしやすく多岐に及ぶことが可能になってきた。


8月7日(日)

私達「チーム横浜英和」の5人は、12時、蒔田に集合し、宮﨑教諭の車で、仙台に向けて出発した。車は、順調に進み、午後5時には、仙台市内に到着。仙台は、東北三大祭りの七夕祭りの真っただ中。3月11日の震災時には、仙台市内もかなりの被害があったと報道されていたが、市中心街は、祭り見物の人が大勢集まり、震災の後を感じることのない賑やかさであった。

夕食後、午後7時、ルーテル支援センターとなりびとの拠点となっている、日本福音ルーテル仙台教会に到着した。礼拝堂では、ライアーコンサートが行われていた。静かな穏やかなライアーの響きと澄んだ歌声で安らぎを得る。福島からこのコンサートを聞きにいらしている方もいて、礼拝堂はあふれそうだった。私達も翌日から始まるボランティア活動への不安を感じつつも、しばし穏やかなときを共有することができた。

学院よりお預かりした献金を現地派遣牧師、日本福音ルーテル教会事務局長、立野 泰博牧師にお渡しし、現地スタッフの方より翌日からの説明を聞く。仙台教会の礼拝堂に畳を敷き、寝袋を広げて寝場所を作り就寝。


8月8日(月)

5時起床。朝食を調達し、昼食のおにぎりを作り、6時、石巻市北上地区に向けて出発した。
石巻本地生活センターに到着後、荷物を置いて身支度を整え、ワーク出発前の祈祷。ルーテルとなりびとのこの日の参加者は、偶然にも全員普段「先生」と呼ばれている人たちばかりとなった。西日本ルーテルのフィンランドの宣教師2名、ノルウェーの宣教師2名、日本福音ルーテル九州教区からの学校の先生、そして私たち「チーム横浜英和」5名であった。

北上地区のボランティアの集合場所である「ひまわり」に集まり、現地のボランティアコーディネーターの青年「くまちゃん」から説明を受け、北上地区橋浦大須地区の小野寺さんの家の泥出し、庭の泥撤去、草取りなどがその日の活動内容になった。私たちルーテルのグループの他に個人ボランティアの方も加わり総勢15名で作業を始めた。

炎天下での作業は、想像以上に厳しく、また根こそぎ取らなければならない草はかなり高くおい茂っていた。また震災前はかなり端正込めて大切にしていらしたと感じられる庭の植え込みは、半分は津波をかぶって茶色く枯れてしまっている。小野寺さんは、男性の一人暮らしのお宅と伺っていたが、震災で奥さまは亡くなられたとのこと。うさぎを飼われていた。

「このうさぎは、かみさんがかわいがっていてね。流されちまったのに、何日かたって帰ってきたんだ。 うさぎは、帰ってきたけど、役場に仕事に行っていたかみさんは、帰ってこなかった。」

と語られる小野寺さん。私たちは、返す言葉もなかった。庭には、津波をかぶって動かなくなった乗用車がそのまま残され、農具も使えなくなってしまったまま置かれている。

庭の草を取り、土のう袋につめ、さらにその下の泥を掘り起こして土のう袋に入れて行く。黒く変色したヘドロは、スコップを入れると層になっていて、塊になって採れる。その深さは10cm近く残されていた。

午後は、庭の作業と、家の床下の泥出し作業に分かれて活動をした。狭い家の床下の泥出しは、炎天下からは逃れられるものの、下を向いての作業は慣れない私たちにはきつい。でも、今日初めて会ったボランティアの仲間とともに、声を掛け合いの作業は、心が通じ合うものがあり、心地よさを感じる。またこんな大変な状況にありながらも、小野寺さんから冷たい飲み物を差し入れていただき、逆に励まされた。朝、草に覆われた庭を見た時には、どうなるものかと思ったが、15人集まると一日でほぼ目的が達成され、小野寺さんからも喜んでいただくことができた。

午後3時に作業を終え、本地生活センターへ戻る。近くの追分温泉に一日の汗を流しに行った。追分温泉は山の中にあり秘湯の雰囲気たっぷり、震災後は被災者の方々に提供していたとのこと、今でも避難所となって、被災者の方々が生活をしておられる。慣れぬ一日の力仕事を終えた後の温泉は、疲れと筋肉痛を癒してくれるものであった。

温泉の帰り道に夕食の食材購入のために、小さなお店に立ち寄った。小さな店のおばさんが、 「ここもね、三軒先までは、津波にやられてね。ぎりぎりだったんだよ。」 と話してくださった。

夕食後、共に祈り、わかちあいのときを持った。小野寺さん宅で活動した我々以外にも、立野牧師は、石巻専修大学構内に設置されている、ボランティアセンターの受付、伊藤牧師は、石巻の最大避難所となっているビッグバンでの活動をされている。伊藤牧師は、1カ月間ビッグバンに寝泊まりされ、被災者の方々と同じ食事、同じ生活を続けていらっしゃった。そして被災者の方のお孫さんがこの日、発見されたことをお話してくださった。

夜の短い時間、10日に伊藤牧師を中心に数名で北上地区の仮設住宅に全国のルーテル教会から届けられた「おすそ分け」(日用生活品、食料品など)を配りに行くため、おすそ分けを入れる袋に、ルーテル救援のシールを張り、全国のルーテル教会女性会連盟メッセージカード、ルーテル学院ケアカードを入れる作業をした。ルーテル学院(熊本県)の高校生から送られたうちわに書かれた「がんばってください。」というメッセージを読んだ伊藤牧師の、 「東北の人たちは、みんな震災からものすごく頑張っているんだよね。頑張らなくちゃいけないのは、私たちなんだよ。」 という言葉が、重く心に残るわかちあいのときとなった。

8月9日(火)

ボランティア活動は、9時から始まるので、その前に日本福音ルーテル九州教区から参加された狩野さんの案内で被災地を訪問させていただいた。

北上川の河口から5km、新北上大橋に近い県道沿いにある、石巻市立大川小学校。穏やかな曲線のモダンの2階建ての校舎で、全校児童108人が学んでいた。避難所にもなっていた学校は、津波とは無縁と思われていた。

3月11日午後2時40分過ぎ、多くのクラスで「帰りの会」が終わり、子どもたちは下校の支度をしていた。午後2時46分突き上げる激しい衝撃、続いて長い横揺れ、先生たちはまず、校庭に全児童を集め、全員の無事を確認。津波警報を知り、男性教諭が校内を見て回ったが、裏山には倒木が多かった。校長は、お子さんの高校卒業式に出席するために午後年休をとって不在。教員は、2階の職員室に集まって協議し、山側の出入り口を抜けて堤防の高いところへ避難しようとしていた。突然、激しい突風に続いて大きな音、津波が道路に沿って迫ってきて、学校は濁流にのまれ、そして108人の在籍児童のうち、助かったのは、34人、多くは保護者が車で迎えに来て連れ出したケースだったと言う。

大川小学校の校舎の周りの住居は全て津波に流されて今は何もなく、校舎の太いコンクリートの柱も無残に倒され、プールと思われる場所の前には、今もブルーシートの上に泥だらけになってしまった子どもたちの靴や学用品、洋服が並べられていた。校舎の周りの一周する中で、私たちには、そこで5カ月前まで元気に生活していた子ども達の姿、声が聞こえてきて、涙があふれてきた。

現地を訪れる前から、新聞等で大川小学校のことは聞いて、どうして山に逃げなかったのかとか、校長はなぜいなかったのかなどと疑問に思っていた。しかし、現地に立ってみると、海からは距離があり、まさか北上川を津波が逆流してきて、襲ってくるとは思わない。雪崩防止のフェンスで囲われた裏山に低学年の子どもたちを登らせることは、安全面から無理であっただろう。もしかすると、高校卒業と同時に社会に出るか、ふるさとを離れるか、新しい道を歩くお子さんの卒業式には、校長の立場であっても年休をとって出席するであろう。学校にいた教員で唯一生還した男性教諭は、4月9日に、保護者向け説明会で初めて津波直前の学校の様子を語ったそうである。現在保護者が訴訟を起こしているそうだが、想定外の事態において、児童の安全を第一に考えるのは当然のことであるが、一瞬の判断の違いによって最悪の事態になってしまう。判断の難しさ、子ども生命を預かる教師の責任の重さを考えさせられた。大川小学校は、3月29日から約10km離れた飯野川第一小学校を間借りしている。せめて助かった34人の子ども達が、明るく夏休みを過ごし、新学期を始められていることを祈る思いである。

続けて石巻市立雄勝小学校、中学校へ。雄勝町は、太平洋に突き出した人口約4000人の町である。地震と津波で沿岸道路が寸断され、震災直後は「陸の孤島」となり、15日に何とか通れるようになった林道から町に入れるようになったそうである。観光バスが2階建て公民館の屋根の上に乗り上げ、今もそのまま残されている。雄勝地区は1933年の昭和三陸津波、60年のチリ地震津波などを経験しているため、津波に耐え得る堤防や防災計画を築いてきたはずだったが、今回の地震、津波はその予想以上のもので、家屋は壊滅状態、公共施設も全滅となった。 

小学校校舎は3階建て、耐震工事がしっかりとなされていた。黒板には「明日の連絡」が残され、また既に日付が「3月14日」に書き換えられている教室もあった。校庭にはピアノが出され、校舎内は既に片づけられていた。雄勝小学校の児童は、橋を渡り、反対側の中学校屋上に避難。屋上でも危険ということが分かり、中学生が小学生の手を引いて、裏山に上って難を逃れたそうである。過去の津波の経験が生き、最悪の事態は免れたということであるが、中学校の校舎内の職員室と思われるところに、コピー機、金庫が散乱し、当日卒業式が行われていたであろう体育館はあとかたもなくなっていて、「卒業式」と書かれた紅白の垂れ幕の切れ端が残されていた。私たちは、今何もなくなった町の姿しか見ることはできないが、更新されていないグーグルビューイングで町の様子を見ると、商店や、住居が並び、電柱が立ち、ごく普通の街並みである。一瞬のうちに全て町がなくなってしまった雄勝町には、今人の気配は全くなく、町の人々はこの町に残ろうか考えているということである。公民館上に残された観光バスの他にも、大型バスが数台横倒しのまま置かれ、雄勝町は漁港の町として観光客も訪れる場所であったことがうかがえる。この町で生まれ育ち、学び遊び、生活していた人々は今どうしているのだろうか。

二つの小学校を訪問し、本地生活センターに戻り、今日から3人の西日本ルーテル教会の方々、藤が丘教会の青年が加わり、活動前の祈りをして今日の現場、十三浜・大指漁港の青山水産わかめ工場に向かう。昨日の作業の後には、この日の作業内容は神社の草取りになるだろうということだったが、宣教師4名、西日本ルーテル教会の牧師、神学生、信徒の方々、そして私たち5名のクリスチャン中心のメンバーであることを考慮してくださったのであろう、神社の草取りは別の団体が担当することになり、ルーテルのメンバーと昨日も一緒に作業をした個人ボランティアの方々と共に、主に男性は近くの沢の瓦礫撤去、女性はわかめ工場の泥出し、廃材撤去作業を行う。

1、2階が工場、3階が住居としていたわかめ工場は漁港すぐそばに設置されている。おそらく周りは住居があったことが分かる家の土台だけが残されていた。津波はこの4階建てのビルをはるかに超えてきたそうだ。初め屋上にいて海の様子をみていたが、わかめの加工作業で忙しい時期で手伝いに来ていた親戚の子に、
「おばちゃん、この津波はヤバいよ。逃げなくちゃだめだ!」
と言われ、半信半疑のまま車に乗り込み、身一つで高台に逃げて助かられたそうである。

既に何回か作業に入られている、長期ボランティアの青木さんによると、1階には海産物を保存する大きな冷蔵庫があったとのこと、最初は、腐食した海産物の処理と津波がかかって全く使用できなくなった機械の撤去で大変だったことが予想される。近くの沢には、最初は大きな冷蔵庫が真ん中に転がっていて、どうしたものか途方に暮れたとのことであった。

私たちは、午前中は主に屋上に散乱したものの片づけ、屋上から3階住居までの階段の片づけを行った。御主人が趣味でさつきの盆栽を育てていらしたとのこと、屋上には、植木鉢、盆栽用に土などが多く残っていた。屋上の外回りは壊されていて、津波の大きさに改めて驚かされた。

お昼には、避難所として使っていた施設で、青山さんの奥さんが昼食を用意して下さり、冷たいおそうめんとボリュームたっぷりのベーコンと卵焼きの珍しい太巻きを御馳走になる。津波で全てが流されてしまったときには、もう工場の再建は諦めたとのこと。しかし建物を調べてもらい、鉄骨はまだ使えることがわかったので、北海道から中古の船を調達し、工場再建を決意なさったとのことである。震災直後は道路も断絶して「陸の孤島」となり、皆で助け合って、貯蔵してある食べ物、冷蔵庫が使えなくなり処分するしかない海産物の中から食べられるものを採り出して食いつないだこと。水を汲んで来て発電機でお湯を沸かしてお風呂に入ったことなど、これまでの経験をお話ししてくださった。全てを失ったところから、また工場を再建しようと決意なさった青山さんの前向きに生きようとする力に感激し、勇気をいただいた。昨晩の伊藤牧師の 「東北の人はみんなものすごく頑張っている。頑張らなくちゃならないのは、私たちだ。」 という言葉が思い出され、新しい力を得て午後の作業を始める。

午後は、沢の瓦礫撤去の作業は引き続き行い、工場建物は、屋上と階段の片づけはほぼ終了したことから、三階住居の床下の泥出し作業を行う。住居のものは殆ど整理されているが、手紙や御守り、写真なども出てきて、つい5カ月前までは普通に生活されていたことがよく分かり、取り分けて青山さんにお渡しした。
工場が再建され、「青山水産のわかめ」が私たちに食卓にも届くことを強く願って、現場を後にした。

西日本ルーテル教団の宣教師の先生方との作業は今日まで、遠くフィンランド、ノルフェーから日本宣教のために来られているだけではなく、こうして震災のためにボランティアに参加しようとしてくださる力強い信仰に学び、2日間の作業をしながらの楽しい交わりに感謝した。

夜のわかちあいの時間では、私たち英和チームは、早朝の大川小学校、雄勝小学校・中学校の訪問のことでまた言葉がつまり涙し、午後の作業で得た経験を分かち合い涙と汗の一日を終える。この日、伊藤牧師から仮設におられる方の状況をお聞きした。津波に流されたお孫さんが今日見つかったというおばあちゃんのお話、二人のお孫さんが流され、1年生の女の子が見つからないと教えてくださったそうである。別のグループは、河北町の仮設住宅へ「おすそわけプロジェクト」を行った。仮設の方々が大勢集まってくださり、あっという間に用意した「おすそわけ」はなくなってしまうとのこと。中に入っている全国の女性会連盟メッセージをとても喜んで下さって、仮設住宅の壁に貼って下さり、慰めになっているそうである。

その後、本地が「ほたるの郷」とされていることから、ホタルを見に行こうということになり、現地スタッフ遠藤さんの案内で人口のビオトープまで行ってみるが、残念ながら見ることはできなかった。

深夜3時ごろ、下から突き上げてくるような地震を2回体験する。まだまだ3月11日の余震と思われる地震が被災地の人たちを襲い続けている。

8月10日(水)

3日目の活動は、北上地区二丁谷の田んぼで瓦礫撤去を行った。津波の後、たくさんの瓦礫が田んぼの中に入っている。重機で取り除いたあと、取りきれないものを手で拾い集める作業である。日陰一つない、炎天下での作業であるが、長期ボランティアで滞在なさっている鶴見さん(日本福音ルーテル蒲田教会員)が慣れない私たちに無理がないように、適切にアドバイス、休憩時間をとるように指示してくださる。

瓦礫とよばれる物の中から、衣服、靴、子どものおもちゃ、CD、テレビのリモコンなど、つい5カ月前までどなたかの家庭で普通に使われていたものが出てくると、その生活が想像され、今は・・・と考えてしまう。何も考えずに目の前の出来ることに集中するようになっていった。

昼食は、いったん本地生活センターに戻り、宮城県名物「白石温麺」をそうめんのように冷たいままでいただく。そして地元の今野さんから差し入れのきゅうり、みょうが、産み立てのたまご(一つ100円とか・・・)をいただいた。毎日大変な生活をしていらっしゃる中で、私たち数日いるボランティアのために採りたての野菜やたまごを差し入れてくださることに、また疲れた体が癒され力を得る。

午後も少し場所を移動して、同じ北上地区の瓦礫撤去作業。作業をしている現場の前のお宅の方が冷たい麦茶を差し入れてくださる。近辺の住居は、全て津波の被害にあわれたままの姿で残されている。瓦礫の中からは家の剥がされた壁、屋根瓦、陶器の破片などが次々出てくる。表面に見えている部分だけを拾い集めているが、おそらく掘り起こしていくと、もっともっと瓦礫が出てくるのであろう。静岡から車でやってきた個人ボランティアの青年と一緒に作業をするが、重くなった土のう袋を運んでくれたり、深く入り込んで取りにくいブロックなどを一緒に掘り起こしてくれたり、初めて出会った者同士であっても、同じ思いで作業をしていることを感じ、温かい気持ちになる。

この地域の田んぼは、10月から区画整理が行われ、作付は再来年になるそうである。再来年の夏には、稲穂が風にゆれ、秋には収穫できることを願った。

作業後、白根教頭は帰路につかれる。

私たちは、帰りの高速料金が免除になる被災地援助証明をとるために、まず、石巻ボランティアセンターに「ボランティア証明」を取りに行く。震災直後からボランティアセンターが設置されている石巻専修大学は、幸いにも津波の被害が免れた施設である。震災から約3カ月は各企業からも受付業務を担うボランティアが来ていたが、今は石巻社協の方とルーテルから1名で全ての業務を担っている。連休には、キャンパス内はボランティアのテントで一杯だったとのことである。そんな中で専修大学の学生は全く普通に大学生活を続けていて、ボランティアに参加する学生はごくわずかとのことである。

「ボランティア証明」をいただいて石巻市役所へ向かった。石巻市内は津波で壊滅的な被害を受け、広範囲にわたってその痕跡が今も残されていた。鉄道は石巻線(前谷地駅~女川駅間)、仙石線(石巻駅~東塩釜間)は運休中、線路はまがり途中で途切れ、草が生えていて復旧のめどは全くたっていない。商店街であったであろう通りはシャッターがまがり、屋根が傾き、ガラスがなくなった店が並ぶ。石ノ森マンガ館がある町には、ところどころに石ノ森章太郎のマンガのキャラクターが立っている。街中はまだ信号機が復旧していないため、警察官の手信号の場所が多い。石巻市役所は、駅前のショッピングセンターの2階で業務を行っていた。市役所の中では人々が忙しく業務を遂行しているが、「死亡届」の窓口が大きく、その前には、待つ人の番号が書かれた椅子がいくつも並べられていた。「被災地援助証明書」をとるための窓口には、北海道江尻市役所の職員がその業務にあたられていた。

帰り道に、いつもの追分温泉ではなく、途中の道の駅の「ふたごの湯」に立ち寄る。一日の汗を流すために、多くのボランティアが利用するだけではなく、被災された方々も多く利用しているのであろう、あまりの混雑に驚くがお風呂で一日の汗と疲れをとることができるだけでも感謝である。

本地生活センターで待つ、西日本ルーテル教会の方々に連絡を取りながら、夕食の買い出しをすませて、戻り夕食の準備をした。この本地は、蝿が多く、食事準備は蝿との戦いの時間でもある。私たちが調理するそばで、男性陣が蠅たたきを持って、退治してくれている、なんとも滑稽な光景である。この日は、伊藤牧師、立野牧師、現地スタッフは、仙台教会で今後の方針についての緊急会議とのことで、本地はボランティアだけで夜のわかちあいのときをもった。

わかちあいのあと、再度ホタルを探しに夜の田んぼ道を歩き、前日より少し時間が早かったこともあり、3匹発見!本地での最後の夜、ホタルを見ることもでき、満足。

8月11日(木)

4日目の活動は、石巻市北上地区本浦保育所の草取り作業を行った。津波の被害にはあったものの、建物を修復して保育所を再開されたとのこと。午前中は園庭の固い土を鎌でけずりながら草取りをした。園舎からは子どもたちの元気な「ソーラン節」の掛け声や太鼓の練習の音が響いてきた。また10時半頃からは、園児が年少児から順番にプール遊びを始めた。プール遊びを楽しんだり、砂場に水を流したり、おだんご作りをしたり、スイカわりをしたりする園児の明るい笑顔に安堵した。しかし、この明るい笑顔の陰には、忘れたくても忘れられない、地震と津波の恐怖が隠されているのであろう。作業の途中で私たちにもスイカの差し入れといただいた。津波をかぶった園庭も夏になると草が生い茂り、まむしが出るとのこと、子どもたちが安心して遊べるように園庭の草取りは急務の仕事だそうだ。スイカのトレイを返しに先生方にお声をかけると、職員室には喪服が何枚かかけられていた。園児、先生方の中にも、愛する方を一瞬の大津波で亡くされた方がいらっしゃるのであろう。震災から3カ月が経過したころから、園児の中には、円形脱毛症を患う子どもたちがものすごく増えているということである。

本地生活センターにもどって昼食後、私たち横浜チームは本地生活センターの掃除を担当し、ボランティア作業は終了。他のメンバーは午前に引き続き本浦保育所の草取りを行い、午後は草刈り機を使って園庭をきれいに仕上げたとの報告を受けた。

私たちは、できるだけ多くの被災地を見たいと思い、3日間生活をした本地生活センターを午後2時に出発し、仙台に戻られる立野牧師の案内で被災地を回った。

まず水産工場がならぶ石巻漁港に向かった。水産工場が並ぶため、4月、5月は車の窓を閉め切っていても臭いで運転が困難であったそうだ。壊滅状態の水産工場、瓦礫の山、中央分離帯に横たわる大きな宣伝用のくじらの缶詰、高く積まれた廃車の山、次から次へと続くその情景に改めて津波の被害の大きさを実感した。一瞬窓を開けてしまうと、今でも悪臭が車内に立ち込めた。

途中、地震・津波の後、火災に見舞われ鉄骨がむき出しになった門脇小学校を見て、東松島市へ向かう。東松島市立野蒜小学校はマスコミでも取り上げられたので、私たちの記憶の中にもある建物だった。地震の後、マニュアル通り体育館に避難。その際に、2階、3階は施錠。全員が体育館に避難した後に、津波が襲ってきた。体育館に避難した児童に容赦なく津波が襲い、体育館のネットや棒にしがみついた数人だけが助かり、その後津波がひく際に、波にのまれた子どもたちは、下半身の洋服を波の力ではぎとられてしまった。その子どもたちに間を通って、助かった児童を校舎の3階に避難。その際、子どもたちは、すでに命を落とした友達の間を通りながらその死を理解することができず、「どうして○○ちゃんは、起こしてあげないの?」と言ったそうである。どうして最初から津波を想定して校舎の3階に逃げなかったのか疑問に思うが、震度7の地震後の避難はマニュアル通りに行うのは当然だろう。今回の津波は、本当に想定外であったことがよく分かる。私たちも教師として子どもの命を救うために、どのように判断をし、行動するか、再検討の必要性を感じた。

その後、町全体壊滅的な被害を受けた東松島市東名地区、宮戸島の月浜、大浜、里浜、室浜をまわった。東名地区は、海岸近く大きな住居が並ぶので、かなり豊かな生活をなさっていた方々であることが予想される。でも地盤沈下により、今は残された住居前の道路も浸水していた。どの住居も壊滅的な被害を受け、既に何も残っていない土台のみの家?そのそばに墓石が倒されていることからおそらくここはお寺だったのかと想像するところ、ソファーもピアノも何も片づけられていない住居を見ると、おそらくここに住んでいらした方は亡くなられたのだろうということが想像できる。かろうじて住所がかかれている住居は、避難されているのかと・・・日本三景松島のすぐそばの海岸を眺め、豊かな生活を送っていた方々が、一瞬の自然災害によって、すべて失ってしまった厳しい姿を目の当たりにして、言葉を失った。

宮戸島の大浜は民宿街である。本来ならこの夏休みの時期、素晴らしい海水浴場として多くの観光客が訪れ賑わっていたのであろう。民宿は片づけられることもなく、屋根がとび、柱がくずれ、物が散乱したそのままの姿で今は静かな海のそばに残されていた。私は数年前、松島、宮戸島を観光で訪れたことがあり、わずかな記憶ではあるが、その変わり果てた姿に驚かされた。

月浜も月浜海水浴場として有名な観光地だそうである。民宿、住居の多くは既に片づけられていたが、トイレ、浴室のあとと思われるところ、家の土台が残され、そこに住んでいた方々の生活が想像された。

すぐとなりの松島市は、小さな島が多くあるため、津波の被害が比較的少なく、殆どの家が復旧し、すでに観光名所として「萩の月」を売る土産物店、海産物の飲食店が並び、いくらかの賑わいをとりもどしていた。島をめぐる観光船も復旧し、のりやホタテ・カキなどの養殖業も復興し始めているとのことだが、地震によって、海の生態がかわり、産業が今まで通りもどせるかどうかはまだ分からないそうだ。

立野牧師を仙台教会へ送り届け、私たち4人は、5日間のボランティアの心身の疲れを癒すために、秋保温泉に向かった。この日は、震災から5カ月目。テレビでは特別な番組が放映され、東北各地で花火大会や灯篭流しが行われた。私たちはこの5日間の言葉では表現できないような様々な体験を共有しながら、このことを9月からの教育にどういう形で生かしていこうか語り合った。

深夜再び大きな地震が東北地方を襲う。津波の心配はないとの報道ではあったが、震災以来まだまだ続く余震に、東北の人々はどんな思いでいるのだろうかと思う。


8月12日(金)

一晩の休息の後、再び仙台教会へ。3人の教諭は横浜への帰路に着く。

11日から長女が短い夏休みを利用してボランティアに参加しているため、私はキッチンボランティアとして仙台教会に残り、奉仕することになっていた。午後3時ごろ、2日間キッチンボランティアとして奉仕してくださる向井さんと共に準備を始める。向井さんは、ルーテル教会員ではなく、単立の教会に所属する方で、何かお手伝いできることはないかと考えていたところ、ルーテルとなりびとのHPでキッチンボランティアを募集していることを知り、仙台の親戚の家に滞在している2日間、3時から5時まで2時間、夕食の準備のためにいらしてくださったとのこと。給食調理の仕事をしていらっしゃる方で手際よく、買い出し、準備を進めることができた。

午後6時半ごろ、石巻でのボランティア活動を終えて、全員仙台教会に戻ってきた。この日は、石巻市北上高齢者福祉生活センター「はまぎく」というデイケアサービスセンターでの作業だった。津波は駐車場まででかろうじて建物は守られたそうだ。ゲートボール場の側溝泥出し、周辺の草採り作業を行ったそうである。石巻ボランティアセンターの受付で立野牧師、伊藤牧師が一緒に働いていた鈴木さんが「はまぎく」の職員であったことから、作業を行うことになったが、聖公会「いっしょに歩こうプロジェクト」のグループと一緒に作業を行った。「はまぎく」は石巻社協の施設のため、なかなかボランティアを送ることができずにいたそうである。

夜のわかちあいのときには、できたばかりの「ルーテル教会救援」のTシャツでの作業姿の写真を見せていただき、聖公会グループと一緒の作業の中でもルーテルの団結が感じられた。最初は、なかなか聖公会グループはとっつきにくかったそうだが、ボランティア作業を通じてエキュメニカルな交わりができたことだろう。


8月13日(土)

お盆休みで石巻ボランティアセンターはお休みだが、立野牧師は受付作業に出掛けた。私はその他のメンバーと共に、被災地訪問をしながら気仙沼に向かった。

既に11日に訪問した東松島市、宮戸島、石巻港、女川町、雄勝小学校、大川小学校、気仙沼市本吉、岩井崎と回った。岩井﨑は観光地としても有名な所であるが、その近くに学校と思われる建物が目についた。グラウンドがあったであろう所、自転車置き場と思われる屋根、そして少し離れたところに立つ門柱には「気仙沼向洋高校」と書かれていた。野球部は、昨年夏、準決勝で名門東北高校を破り、決勝に進出、おしくも決勝で仙台育英高校に敗れ甲子園出場は逃したものの、「東北」「仙台育英」の2校は県外出身者が多い私学2強であり、その「東北」を倒した公立校として注目された。
3月11日の午後、野球部は練習の真っ最中、校舎の目の前は、太平洋。大津波警報が出され、練習を中断し急いで片づけをして、選手はひとまず近くのお寺に避難したが、危険が迫って内陸部の中学校まで逃げのびたそうである。想像を絶する津波は校舎の4階まで襲い、校舎は壊滅し、野球部は、ボールも、バットも、ユニフォームも、すべてを失った。野球どころではない状況のなかで、監督は主将の三浦岬の父親に連絡を取り、全員が無事なことを確認。地域の3校の監督と連絡を取り合い、高台で被害のなかった気仙沼西高校のグラウンドで4月10日から合同練習を始めた。
エースの斉藤選手は、本来の実力を十分に発揮できず、チームは2回戦で敗れたが、8月6日、甲子園開幕戦での始球式の大役を果たした。太平洋が目の前にある「気仙沼向洋高校」の校舎は、3月11日の被害をそのまま語り、グラウンドはまだ浸水していた。

その後、気仙沼市街地、気仙沼漁港へ。気仙沼漁港はかつお漁が始まり、市場も一部復興したという明るいニュースが報道されていたが、復興しているのは、本当に一部で、よくこのような状況の中で前向きに復興にこぎつけたと漁港の力に驚かされた。漁師は皆、 「海は何も悪くねえからなあ。自分たちは海で仕事をするしかないからなあ。」 と言って、再び漁に出て仕事を始めている。
気仙沼市は広範囲にわたって津波の被害を受け、地震発生の日の夕方に漁船の造船所の重油タンクが倒れ、市街地が炎に包まれ延焼、その火勢はなかなか衰えなかったところである。移動するのが難しい巨大なタンカーが今もそのまま陸地に残されていて、道路は浸水して車の運行も困難な状態で、瓦礫はかなり片づけられてはいるものの、家の土台と思われる所からは、生活が感じられる物を見出すことができた。ルーテルが支援している「リバーサイド春圃」の建物も教えていただいた。施設に入っていたお年寄りの何人かは震災の犠牲になられたが、今は内陸部の施設を間借りして生活されているそうである。

この日の作業は午後3時から、気仙沼大谷海岸近くで行われる、気仙沼平磯復興祭りの会場設定などの準備作業である。舞台を設定、被災者の方と一緒にペットボトルで灯篭を作るお手伝いをした。高台から津波を見ているときは、何も言葉がでなかったことなどそのときの様子をお話してくださった。
「復興は、何年かすればできると思う。でも原発はね。分からないからね。」

という言葉から、被災者の方の不安はやはり何年たっても消えることがないことが分かった。福島第一原発の事故はかなり詳しく報道されているが、すぐ近くの女川原発の状況は地元の人たちにも何も明らかにされていない。気仙沼市では、パナソニックとともに独自のエネルギーを開発しているとのこと、復興への道のりは険しくとも、前向きに歩もうとしている力を感じることができるお話だった。

作業の最後にかき氷の差し入れがあり、地元の方とお話をしながらいただいた。そして翌日のお祭りについての説明、災害時に、どの道を通って高台に逃げるか誘導して欲しいという確認がなされた。

翌日の気仙沼平磯復興祭りに参加できる人は、気仙沼に宿泊し、その他のメンバーは仙台に戻った。途中、南三陸町志津川では花火大会の準備がされていた。南三陸町は、役場も消防も全て津波にのまれ、今も3階建てと思われる建物が横倒しになり、役場はわずかな鉄筋の骨組みだけを残した姿で建っていた。南三陸町だけで3月14日、1000人もの遺体が発見されたと報道されている。全て津波に流され、全てを失った志津川で、花火大会に向かう地元の人々の心の中を思うと、花火が未来に向かう一歩への力となることを願う。コンビニも店舗を構えるようになり、復興への小さな歩みは確実に進んでいることを感じる。

一日車で被災地を回っていると、行けども行けども地震と津波の被害を続いていることが分かり、被害の大きさ、広さに愕然とさせられる。瓦礫はかなり撤去されてはいても、ところどころに残されている車には、遺体捜索が終わった印が残り、どこの屋根かわからない家の屋根が田んぼであるべきはずの土地にころがり、家の土台の上に船が横たわり、言葉では表現できない惨状がどこまでも続くのである。宮城県の一部だけでもこのような被害なのに、これが福島県、岩手県、青森県あるいは、栃木県、茨城県、千葉県の海岸線まで続くのかと思うと・・・

また途中仮設住宅が建てられているのを見ることもできたが、津波の危険のない山の上の方に建てられ、車がなかったら買い物に行くこともできない不便さ、また真夏の暑さ、冬の寒さには耐えられないであろう簡素なプレハブの建物に、今後の被災者の方々の生活の困難さが想像された。仮設に入っても仕事もなく生活ができない。段差があってお年寄りは暮らしにくい。なかなか抽選にあたらない。障碍者がいらっしゃる家庭でも優先的に仮設に入れるわけではない。・・・仮設住宅の問題点は山積みである。

仙台教会に戻って夕食、祈りを合わせてわかちあいのときを持つ。立野牧師から長谷川学院日寄山幼稚園の話をうかがう。地震後園児たちは、パニックになり泣き叫び園長はとにかく少しでも早く母親のもとに戻すと判断し、園バスで丘を下りて津波にのみこまれてしまった。幼稚園は丘の中腹になり、地震や津波の大きな被害は免れたそうである。園バスに乗っていて亡くなられた園児の妹が今でも大好きなおねえちゃんの帰りを待っているという。

仙台教会には来訪者があり、留守番をしていらした現地スタッフがお話をうかがうと、石巻で被災され今は仙台に住んでいらっしゃるが、義援金は3月に10万円支給されただけ、仕事もなく生活に困っていらっしゃるとのこと。ルーテルさんが活動していることを知り、教会を訪ねていらしたので、救援物資の中から必要と思われるものをお渡ししたそうである。


8月14日(日)

午前5時30分、早朝の電車で帰られる西日本福音ルーテル松江教会の梶西牧師を見送り、朝食をすませ、仙台教会の聖日礼拝にそなえ片づけを始めた。礼拝堂に敷いた畳、マットの片づけ、教会玄関前に積まれた支援物資の片づけ、掃除を分担して行った。
片づけが終わったころに、信徒の方がいらして、講壇に花を生け、受付、聖餐式の準備を整えられた。

礼拝には、昨日教会に来訪された石巻の被災者の方も出席してくださり、他にも新来会者の参加があった。藤井邦明牧師は、鶴ヶ谷教会との兼任牧師でいらっしゃるので、礼拝後鶴ヶ谷教会へと向かわれた。

礼拝後の交わりのときに、仙台教会の会員である長女の友人から、震災直後の仙台の様子をうかがった。大学4年生の彼女は、幸い家は高台にあり、被害は大きくなかったため、被災地の様子を写真に撮ってまわり、また長期にわたって、住居の片づけ・泥出しのボランティアを続けられたそうだ。大きな被害を受けたキリンビール工場には、缶ビール、缶ジュースが散乱し、「御自由にお持ちください。」ということで大勢の人が集まっていたことなど笑顔で話されてはいたが、高校の同級生が亡くなられ、多くの友人の実家が被災し、心の傷を負いながら日々の生活を送られているのであろう。

気仙沼に滞在したグループは、聖公会のメンバーと共に気仙沼平磯復興祭りに参加、舞台の上には大漁旗が掲げられ、復興に向けての地元の人たちの強い決意を感じられたことだろう。
私は、仙台教会での礼拝後、7日から14日までの宮城県でのボランティア体験を終え、帰路についた。


活動を終えて・・・

帰京してから、この体験を記すため「復興支援地図」「朝日新聞縮刷版東日本大震災」「緊急復刊アサヒグラフ東北関東大震災」を購入した。朝日新聞の震災関係の記事は、毎日読んではいたが、現地に行ってまた読み返してみると、この5カ月で復旧が進んでいることは明らかではあるが、復興への道のりはまだまだ険しいことが良く分かる。たった一週間のボランティアで出来たことは本当に小さなことで、ゼロに等しいかもしれないが、東北の人達は、とにかく見てほしい、知って欲しい、忘れないで欲しいと願っている。その思いは強く伝わり、見てきたこと、感じたことを一人でも多くの人に伝え、子どもたちにも語り続けて行くのが、現地を見てきた者の務めと感じている。マスコミの報道は、今や地震・津波よりも原発に集中しつつある。しかし私たちはこの広範囲に及ぶ地震・津波の復興のためにそれぞれの立場で、それぞれのできる支援をし続けていきたいと思う。

ルーテル教会は、震災直後から活動を始め、4人の現地スタッフと立野牧師、伊藤牧師が中心になり被災者の方々の声に耳を傾けて活動をしてきている。1年間の予定からつい先日3年間支援を続けていくことが決まった。そして地元の人たちから「ルーテルさん」として受け入れられ、石巻北上地区のボランティア総括を任されることになったそうである。私の属する教団の教会も現地スタッフ遠藤さんの助けをいただいて、物資の支援を行い、聖公会の「いっしょにあるこうプロジェクト」もルーテルの働きを通して活動をしている。これまでのルーテル教会の働きの大きさ、そしてこれから担うべき責任の大きさを思うと、ますますの一人一人の支援が大切になっていくと思う。

これから被災地は、暑い夏が去り、厳しい冬へと向かっていく。求められる支援、必要な支援はまた刻々と変化していくであろう。阪神大震災との違いは、地震だけではなく、津波が起こったこと、桁違いの広範囲が被災地となったこと、原発事故を伴ったことなどいくつかあげられるが、時間帯が午後3時であり、仕事や学校の授業時間帯だったために家族がバラバラで、全ての家族を失ってしまい一人残された方、お子さん、お孫さんを亡くされた方、両親を亡くされた方が大勢いるということもあげられる。仮設住宅に入られて3カ月目位からは特に、心理的支援が重要になっていくであろう。9.11同時多発テロ事件以来、PFA(サイコロジカル・ファーストエイド)の大切さが言われているが、被災後の心のケアは長きにわたって必要とされていくであろう。

私たち数日のボランティアを温かく受け入れ支えてくださった「ルーテルとなりびと」の現地スタッフ、立野牧師、伊藤牧師に感謝し、これからの働きの上に主の導きが豊かにあるように祈る。また共に心を合わせて働いたボランティアとの出逢いを大切に、東北からは遠く離れた地での日々の忙しい生活の中にあっても、被災地の方々のことを決して忘れないこと、できる支援をできる形で続けて行くことを堅く決意して、祈りつづけていきたい。

*参考文献 
「東日本大震災 復興支援地図」(昭文社)
「朝日新聞縮刷版 東日本大震災」(朝日新聞社)
「緊急復刊 アサヒグラフ 東北関東大震災」(週刊朝日)
「Number 785 甲子園最強高校伝説」(文芸春秋)
「被災後の子どものこころのケアの手引き」(チャイルド・ファンド・ジャパン)
HPルーテルとなりびと URL
ボランティア 大和友子(横浜英和小学校)