震災以来、義援金をはじめ何か私でも出来ることはないかと、気持ちだけは先走っていました。幸い、ルーテル教会救援センター“となりびと”が立ち上がり、「果たして私で役に立つのか」と自問しながらも参加させてもらいました。余震や先の見えない原発事故、遠く馴れない東北の地・・・など家族は心配しましたが、ルーテルの仲間が居ることが少しは安心だったようです。
仙台の空港に降り立って、映像で知っているつもりでしたが、そのあまりの惨状に身が震えました。寒さの中、咲き始めた桜とのコントラストがあまりにも皮肉に見えました。
仙台教会に設けられた支援センター“となりびと”には、センター長や常勤のスタッフ、先着のワークボランティアがおり、初対面でありながら目的を同じくする“同労者”としての安心感がありました。
その夜は4月下旬にしてはめずらしく(いや、普通なのかも知れないが)ミゾレとなっていました。次の日、早くに仙台を出て石巻に近づくにつれ一面の銀世界。ボランティア活動の厳しさが予想されました。でも災害現場を目の当たりにして、小さいながらも出来る限りのことをしようと心を新たにしました。
すべてが初めてでした。石巻VCでは“マッチング”という見ず知らずの人同士が“にわか作業グループ”を作り現場に向かいます。みんな真剣で、同じ目的を持って全国から集まって来ているので、人との出会いの新鮮さとその後に続く連帯感が自然と生まれます。
作業現場は海岸から数百メートル入った住宅地。瓦礫が両脇にうず高く積まれた細い道を迷路のようにして辿り着きました。一階部分が漂流物とヘドロ、それに壊れた電化製品で一杯です。腐った色々の物が臭いが重なり合い、マスクなんかでは意味有りません。
久しぶりの力仕事でしたが、“となりびと”からの先輩ワーカーに後れをとるまいと懸命です。眼鏡の曇りなぞ気になんかしていられません。それにしても、皆さん一心不乱に良く働きます。災害の悲惨さを身近で感じるから一層熱が入るのでしょう。なにせ、隣の家は基礎部分しか残っていず、上にあるはずの家屋の代わりは仰向けの車なのですから。
お向かいの家に人を見かけ震災当日の様子を聞こうと思っていると、むこうから話し掛けてきました。方言交じりの淡々とした口調で、お孫さんと息子のお嫁さんが幼稚園に迎えに行っている途中に津波に流されてしまった。残されたのは年老いた私と息子だけ、男二人だけになってしまった。これから、家を修理してここで住もうか、それとも別の所で・・・、と話され、こちらは慰めごとは何も言えずに「そうですか・・・」「そうだったんですか・・・」と答えるしかありませんでした。
ワークを終えても夜遅く仙台に帰り着く毎日でしたが、長い道のり送り迎えをして頂く牧師をはじめスタッフの働きにも頭が下がる思いでした。夜半からの“わかちあい”で、他の場所での被災者の状況や“となりびと”スタッフの活躍状況を知って励まされ、“明日もやろう!!”と思いを新たにして寝袋に潜り込みました。
次の週からは働き人も一人、二人と増えてきて、何をするにも心強いものになり作業に力の入る毎日でした。復旧が手付かずの場所も段々少なくなってきているような気もしました。
連休前後からは参加人数もたくさんになり、“となりびと”として一つのワークグループを組めるほどの余裕が出来、家の中の泥出しはもちろんのこと被災者との色々な交流と会話の中で、目には見えないボランティアとしての働きもあったと感じます。
この様にして所期のボランティアワークを最後までやり遂げることが出来ました。無理せずに、ワークする日と休む日を取れたことが秘訣だったのでしょうか。それだけでなく、受け皿としての仙台教会、“となりびと”スタッフ、再会した旧知の教会員、そして若い人から同年代まで様々なワーカー。一つの力によって同じ場所に集められた人達の交わり中にその源があるような気がしています。やれた事は本当に少ないけれど、感謝!感謝!
旅の終わりに訪れた花巻の宮沢賢治の碑の前で、豊かに流れる北上川と芽吹き始めた緑の山々に、東北のこの地が持つ“底力”を体感し、復興の予感を強く持ちました。
ボランティア 油布益啓